自己紹介 笹木 郁乃

はじめまして。

笹木郁乃と申します。

株式会社LITA 代表取締役、一般社団法人PRプロフェッショナル協会 代表理事を務めています。

この自己紹介では私の山あり谷ありの人生の中で、PRと出会い、どのようにPR会社の代表を務めるまでに至ったのかをお伝えさせてください。

貧しい家庭に生まれ、命の危機を経験

 私は宮城県仙台市に、4人兄弟次女として誕生しました。

 父親は長くうつ病を患い、母親は仕事が嫌いで専業主婦でした。貧しいながらも温かく陽気な家庭で自由に育ち、指図もされず、 「やりたいことをやりなさい」という両親の方針の元、日々穏やかに伸び伸びと育ち、「やんちゃ」な幼少期を過ごしました。

 交通事故に合い、脳の大きな手術をすることに。「20歳までに後遺症が出るかもしれない」と言われ、死の恐怖と向き合う中で、「いつ死んでも後悔しない人生を生きたい!」と幼いながら、強く意識するようになりました。「お医者さんに助けられて、私がいるから、私も人の役に立つことをしたい」と強く決意。(ただ、夜の病院が怖すぎて、医者や看護師は憧れなかった。)

 『いつ死んでも後悔しないように生きよう』という人生観が、この時に形成されました。

目標のない大学生活

 そんな情熱を持ちながらも、それをかける大きな夢はなかなか見つからないままに高校を卒業しました。数学が得意だったことから、山形大学理学部数学科に入学しました。しかし、定理を追求する数学科の学びに、社会への直接的な貢献を見いだせず悶々とする日々。そんな時、工学部の洗濯機の製造に関する授業を受け、「自分の得意な理系分野の知識を、人々の生活に生かし、社会に貢献できるものはこれだ!」と感じ、自分の情熱を傾けるものが見つかったと思いました。

 そこで、大学初の工学部へ転部。転部したからには、やり遂げよう!という持ち前の勝気な性格から首席での卒業を決意しました。友達がサークル活動や、遊びを楽しむ中、図書館で1日何時間も、缶詰で勉強する努力を重ねた結果、首席で卒業。また、日本機械学会畠山賞を頂き、機械学科で「人格、学習共に優秀」な2人に選ばれました。その間に、20歳を迎えましたが、交通事故の後遺症は出ることなく、無事に成人を迎えることができました。

会社へ行けない日々

 山形大学を首席で卒業し、アイシン精機株式会社(現:株式会社アイシン、自動車部品の製造)へ研究職として入社が決まり、愛知で働き始めました。超大企業の研究職に、憧れの入社であり、希望に満ちての入社でした。

 しかし、配属されると、周りの優秀な人材ばかりの中で落ちこぼれ、結果を出すことができず、「研究についていけない…」「足手まといになっている…」と自分の不甲斐なさに落ち込む日々を過ごすことになりました。

 また、自分の力不足により、「世の中の役に立てている感じがしない…」、「自動車の部品設計に情熱が湧かない…」、「自分は、こんなに価値のない人間だったんだ」と、人生で初めて大きな挫折を味わい、すっかり自信喪失となり、「社会人は、こんなものか・・・」 と何度も言い聞かせましたが、遂に、精神的につらくなり、毎朝涙があふれ、鬱状態になり、会社を休むまでになっていました。

 その時に励ましてくれたのが、同期でもあった今の夫でした。

一冊の本をきっかけに天職を求めて1人目の正社員に

 大きな失望の中、ある日立ち寄った書店でバレーボールの故・横山友美佳選手の著書、『明日もまた生きていこう 十八歳でがん宣告を受けた私』と出会いました。

 「せっかく小学生の頃、九死に一生を得て助かった自分の命を思い、今健康な自分が、このように落ち込んでいる場合じゃない」、「自分の可能性はこんなもんじゃない!」、「エンジニア以外に天職があるはず」と自分を奮起し、入社3年目に転職を決意。

 誰かの役に立っているという実感や、誰かの役に立っているという実感や、私が頑張ればこの会社が伸びるという分かりやすさがある職種の方が、力を発揮できるのではないかと考え、小さい会社を大きくして、自分自身も会社も運命を変えるような仕事がしたいと思い、小さい会社の営業職で転職活動をスタートしました。

 しかし、営業未経験での転職活動は非常に厳しく、なかなか転職先が決まりません。最後の最後に受けたのが、創業期の寝具メーカー、「株式会社エアウィーヴ」でした。面接官として来られた高岡社長に、会社と製品について小一時間も熱く語っていただき、熱意に打たれ、1人目の正社員として転職が決定したのです。

年商1億円から5年で115億円へ急成長にPRで貢献

 転職後、「この会社を大きくしたい!」という一心で、夢中でがむしゃらに営業するも結果はいまいち。そんな時、東急ハンズに販売コーナーがあり、私は店頭で一生懸命声を張り上げて商品を販売していました。しかし、どれだけ頑張っても高額なマットレスは1日1つ売れるかどうか。

 一方、同じ価格帯の隣の有名ブランドは、販売員がいなくても「雑誌で見た」と1週間で30~40個が自動的に売れていったのです。この圧倒的な違いを考えたとき、「多くのメディア掲載に裏付けされたブランド力の差」だと気づいたのです。そこで、「多くのメディアに掲載される、選ばれるブランド」になるために、お金をかけずにできるPR活動に注力し始めてから約3年後、エアウィーヴのマットレスはメディアでも常連になり、話題のブランドに成長。東急ハンズはもちろん、他の店頭やウェブでも、販売員がいなくてもお客様に指名買いされるようになりました。

 そして徐々に有名になっていったエアウィーヴは、浅田真央さんを始め、一流選手などから徐々に評価され始めました。PR活動でも電話や訪問で体当たりのアタックを続け、地元愛知県のテレビ局で取材が決まり、放送直後には問い合わせの電話が鳴りやまない状態に。まさにPRすることで一夜にして世界が変わる体験をしたのです。

 その後PRが功を奏して、メディア露出も増え、エアウィーヴは入社時年商1億弱から5年で年商115億円以上、従業員400名へと急成長にPRで貢献することになりました。
エアウィーヴで、1つやり切った感覚を味わい、そんな折に妊娠、30歳で出産し、1年の育休を取得しました。

1年の育休後、居場所がない…

2013年に出産、産後3カ月で復帰。約1年の育休後、会社へ復帰すると自分の居場所がなくなっているように感じました。

 後任の広報スタッフが複数名配属され、本社は愛知から東京に移転した時期であり、愛知勤務の私は、時短で勤務中。

 こうした状況に、「私がいなくても、この会社は大丈夫なんだ」と安堵すると共に、子育てしながら、のんびり、この会社に居続けようと思った時期もありました。

 しかし・・・母になっても、 『いつ死んでも後悔しないように生きよう』という人生観、そして私という人間の根本は変わりませんでした。

 1歳の息子の子育てにまだ慣れない中ではあったものの、「こんなにかわいい子を預けてまで働くなら、大きなやりがいのある仕事をしたい」という思いを抑えきれず、「この魅力的でエキサイティングなPRのスキルをもっと活用し、企業のPRを支援したい!」、という強烈な目標を達成すべく、2回目の転職活動を開始しました。

出産と新たな企業で再挑戦

 エアウィーヴは大きな企業となり、PR部門に後輩も育って自動的に取材が来る、まさにPRとしては望ましい状態になりました。そこで、私は再び小規模なベンチャー企業で挑戦する道を選びたいと思うようになっていました。子供が1歳の時でしたが、愛知県の町工場、「バーミキュラ」という鍋製造販売の「愛知ドビー株式会社」への転職を決めました。

 転職後はPR・マーケティング職として勤務し、まずは実績作りのためにシェフや料理研究家にアプローチを開始。メディアに対しては、メディアごとに「刺さるポイント」を意識して資料を作り変え、また地道なアプローチを開始し、ワクワクする日々を送っていました。

 このようなPR活動により、メディア露出は増えていきましたが、なかなか売り上げには結びつきませんでした。それでもPRの種をこつこつと蒔き続け実績を増やし続けた結果、2週間連続でゴールデンの時間帯のテレビ番組で取り上げてもらったことで、爆発的に売れ始めることになりました。あっという間に在庫がなくなり、バーミキュラは12か月待ちの人気商品となり、その後愛知ドビーは2年で11億円から44億円に急成長を遂げました。

子育てと仕事を両立する選択肢がなく思い悩む

 充実した毎日を過ごしながらも、母として、今後子育てと、ベンチャー企業勤務の両立(朝8時に会社でラジオ体操必須。毎朝息子の寝顔を見て家を出る生活)をすることは、長期的に難しいと感じるように…。

 私はPRの仕事が好きで、もっと挑戦したい、もっと企業に、世の中に貢献したいと強く感じるようになっていました。しかし、会社の中では挑戦できることに限界があること、挑戦しながらも子育ても自分なりにコントロールして両立したい、そしてなにより「人の役に立ちたい」という想いが、日に日に強まっていきました。

 「起業」ということを、考えるようになったその頃、自然と、facebookやアメブロを見ていると、SNSで起業している女性の姿が目に留まるようになり、私にもこれまで培ってきたこのPRの力を、起業して、直接いろんな方に伝えたり、サポートすることで、誰かの役に立てるかもしれないと考えるようになっていました。

 早速、ブログを書き、SNSの投稿を始めることで、認知を広げることを始めました。初めてのお客様は、そんな私のブログを読んでくださった読者の方でした。

 こうして直接誰かの役に立てるという体験をした私は、愛知ドビー株式会社を退職することを決めました。

PRプロデューサーとして活動開始

 PRのコンサルティングを始めた当初は、とにかく実績を作ることを目標に、低価格で行っていました。しかし、お客様の口コミや、頂いたご感想を更にSNSで紹介することを繰り返しているうちに徐々に認知が広がり、お客様の数が増えていきました。

 2016年2月から個人事業主として、PRプロデューサーとして活動をスタート。個別対応では追い付かなくなり、講義形式の「PR塾」という形を取るようになりました。PR塾は期を重ねるごとにお客様のステージも変わって行き、全国から起業家、経営者、PR担当者が受講くださるまでに成長しました。

 PR塾は口コミで広がり、毎期すべて満席となりました。自分に起業ができるのか、怖くもありましたが、「やろう」と決めたら、あとは努力するだけと思い切り、踏ん切りがついたことで、非常にワクワクした日々を過ごしていました。直接、いろんな方のサポートをして喜んでいただけることに、とてもやりがいを感じ、起業がとても楽しく、のめりこんでいきました。

9割のスタッフの離職

 企業へのPR代行支援と、企業の経営者、広報担当者にPRを指導する「PR塾」。この両輪で、事業は少しずつ大きくなっていきました。

 個人起業で、私が関われる周りの方を丁寧にサポートし続けるという選択肢もありましたが、私1人でできることと、時間には限界があります。一方、PRを求めていただける方、そしてPRによって人生が変わる方はたくさんいる。そういう思いから、事業拡大のために、スタッフを雇うことになりました。

 しかし、どうしても私の「PRでたくさんの人の助けになりたい、多くの会社の役に立ちたい」という強い思いと、スタッフとの気持ちの間にずれが生じていく…。

 私は、経営者ではありましたが、会社の作り方などわからず、個人起業の気持ちのままで、会社経営していたのです。その頃の私は、自分もスタッフのことも、何一つ理解できていなかったのです。

 その結果9割のスタッフが辞めていき、何度も「もう会社なんて辞めよう。自分1人でできる範囲でがんばればいい…」、そう思うようになり、精神的につらい日々が続きました。

「人間学」との出逢い

 しかし、PR塾に反響をいただくようになり、やはり組織化は必要。でも、前と同じ失敗(スタッフの離職)は絶対したくない。常々そう考えていた私に、経営者として、大きな出逢いがありました。それは致知出版社の「人間学」です。リーダーとしての心得、社員との一体感の大切さを人間学を通して知ったのです。それに加え、やりがいを感じる組織、つまり、結果が出て充実感を感じられる環境を作ることも、経営者として大切なことだと感じることが出来たのです。

 こうして徐々に経営者として、様々な試行錯誤をして2年。社員が安定するようになり、組織として、そして私自身も経営者としてともに成長し続けています。今でもこの、「人間学」から日々学び続けています。

新たなステージへ

 PR塾の拡大、そして私自身にも企業PRの案件をお声がけくださる企業も増え、PRの需要の大きさを日に日に感じるようになりました。さらに、PRノウハウを教えることだけでなく、世の中に大きな感動を巻き起こす、自社自体でイノベーションを起こしたいと考え、企業との仕事を増やしていくことを決意しました。

 次第に案件の数も増え、多様になっていく中で、これからは更にチームの力で大きなことを成し遂げたいという想いが強くなりました。それは、起業してからの3年で、私は完璧な人間ではないということを知ると共に、チームでのPRサポートで結果が出ることを何度も体験したからです。私一人では、できないところ、足りないところがたくさんあります。そんな自分が、より大きな感動を作り、社会へ貢献して行くためには、1人ではなく組織を作り、拡大していくことが必要なのだと心を決めました。

 2019年4月、会社名を株式会社LITA(利他)とし、組織化を進めていきました。社名の「株式会社LITA」 =利他とは、自分の利益よりも、人や企業、世の中のことを思いやる心、という意味です。PRも、仕事も、利他の心が無いと、成功しないと感じています。

離婚の危機

 会社が軌道に乗るにつれ、愛知が自宅の私は、クライアントやメディア取材の立ち会いなどで東京出張が増えていき、夫も、私の「イライラ」や「東京出張の多さ」に理解ができなくなり、口論の日々が続くようになりました。

 そして、ついに、離婚を話し合う日々がはじまりました。

 離婚届もお互い書き、両親にも報告が終了。後は、別々に住むだけ…。その段階になって初めて、急に、私は心の安定がなくなり、仕事すら挑戦するのが怖いと感じるようになったのです。
 「家族は、無意識でこんなにも心の支えになっていたのか」、とこれまで支えてくれた夫の存在の大きさを感じ、本能的に、やっぱり離婚したくないと思ったのです。

 それから私は、歩み寄りが足りなかったと反省し、関係修復を提案。お互いに本音を話し合って再スタートすることになりました。お互いに「ありがとう」と口に出すなど約束を決め、関係性を再構築していったのです。

愛知―東京への遠距離通勤

 離婚危機を乗り越えた現在、自宅のある愛知県大府市と、会社のある東京へ遠距離通勤の日々。

 不便でもあえて遠距離通勤を選んだのは、家族の大切さを身に染みて感じていたからです。とことん話し合うことで、家族と歩み寄り、お互いにとってのベストを探していく。会社経営で、自分1人では何もできないと知っているから、家族にも、そして信頼できるママ友にも助けを求め、今のスタイルが完成しました。

 家族、そしてママ友の助けがあってこそ今の私があることに感謝しています。

 この様子は、2020年10月9日 テレビ東京『所さんの学校では教えてくれない そこんトコロ!」で約15分紹介され、「驚き 遠距離通勤 なぜそんな遠くから通っているんですか?」のコーナー史上最長の距離で、パワフルな母と所さんからもコメントを頂きました。

日本一位のPR会社を目指し、PRプロデューサー養成

 この社会状況で苦しむたくさんの企業や人に、PRで貢献したい思いが更に高まってきています。
 PR会社として「LITAに頼めば安心」という組織を作り、日本一のPR会社を目指しています。また、現役のPR会社として蓄積し続けているPRノウハウをPR塾でお伝えすることで、PRプロデューサーという仕事で未経験から活躍する人も増えています。

 PRの需要はとても高く、LITAでは今も8割のお客様のご依頼を受けれない状況が続いていますが、PR塾を卒業した方達がPRプロデューサーとして多くの企業・店舗・起業家のPRサポートを行い、企業は認知・売上を高め、PRプロデューサーは高単価で安定した収入を得られる好循環となっていることを嬉しく感じています。

自己紹介を読んでくださったあなたへ

 私が特別に優れているとか、突出していることがあるわけではありません。多くの失敗を経験し、遠回りもしてきましたが、それでも前に進み続けたから今の自分がいると思っています。

 PRと出会った時にも最初はうまくいかず、商品も売れなかったため、工場の草むしりばかりしていたこともありました。それでも諦めずに行動し続けたからこそ今があります。

 誰でもチャレンジして1歩を踏み出したら、人生を変えることができます。
自分自身とPR塾生の皆様を見て、自信を持って言うことができます。

 企業や店舗、起業家のPRをし、メディアに取材・掲載していただくことで認知度の向上や売上UPに貢献できるPRプロデューサーのお仕事は、本当にお客さんに喜んでもらうことができます。

 私はPRに出会うことができて、本当に良かったと実感しています。

 最初の一歩を踏み出すのには勇気がいります。

 でも、もし、その最初の一歩を正しく踏み出したいと思っているのであれば、PR塾はあなたの力になれると確信しています。

あなたに直接お会いできる日を楽しみにしています。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。