受講生インタビュー

2週間でPRを学び、クライアントのために行動。手紙や電話など攻めのアプローチで新聞掲載を獲得。堂阪陽子さん

企業の人材教育やサービス品質向上のためのコンサルの仕事をされてきた堂阪陽子さん。コロナ禍で顧問契約打ち切りのピンチから、PR塾の受講を決意。クライアントに新たなサービスとしてメディアPRを提案されました。期間限定のチャンスから長期契約を獲得するなど、諦めない攻めの姿勢で仕事に向き合ってこられた堂阪さん。これまでの仕事とはまったく異なるキャリアのPRプロデューサーとして活躍中の堂阪さんにPR塾に入った経緯などをお聞きしました。

PROFILE

広報PRプロデューサー

大学卒業後、教育会社のコンファレンス・コーディネーターとして、企業向けの教育・研修における問題解決・企画提案営業に従事。退社後、大手外資保険会社のインバウンドコールセンター、建設業界のアウトバウンドコールセンター、大手シェアードのコールセンターにてコミュニケーターからディレクターまでを経験。その後、保険代理店企業に転職。自社コールセンターの立ち上げをはじめ、各種社員研修プログラム開発、従業員の相談窓口開設、独自の制度構築などにも携わる。2021年5月より、クライアントの認知・集客・売上拡大に繋げるべく、メディアPRを学び、現在はフリーのPRプロデューサーとして活動。

Facebook:https://www.facebook.com/yoko.dosaka.7

「できるわけない」と言われても、自分がやりたい!と思ったらやってみる

ー幼い頃はどんな性格のお子さんだったのですか?

周りからは「絶対できるわけないよ」と言われるようなことも、周りの目を気にせずやってしまうような子どもでした。自分の中で成功している自分が描けたら絶対いける!と考えていました。人と違うことをやってみたいという気持ちがすごく強かったですね。それは、社会人になってからも変わっていないと思います。

大学卒業後はどのようなお仕事をされていたのですか?

教育会社に入って、そこで「コンファレンス・コーディネーター」として活動していました。色々な企業の研修や会議を効率良く効果的に行なえるようにコーディネートする仕事でした。ある時、上司に「絶対そんなことできるわけない」と言われたことを「できます!」と言って実行し、結果、全社表彰を受け、目標にしていたアメリカのコンファレンスセンター視察が実現しました。その後、2年連続表彰を受けたことで目標を達成し、やり切ったと感じていたため、あるタイミングで退職しました。

ー退職した後はどうされたのですか?

次にやりたい仕事がありました。それは、教育会社でコンファレンス・コーディネータとして、色々な業種の企業を担当していたのですが、その時、絶対見ることができない場所があったのです。それがコールセンターでした。経営状況は教えていただいても、機密情報が満載であるコールセンターだけは詳しく見せてもらえず、仕組みなど知る由もないという感じでした。
当時、これからはテレマーケティングの時代だと言われていたので、どうしても自分のキャリアにプラスして、コールセンターのスキルが欲しかったので、その後は、インバウンドのコールセンター、アウトバウンドのコールセンター、シェア―ドのコールセンター※の3社を経験しました。

※シェアードコールセンター:コミュニケーターや管理スタッフが複数の企業のコールセンターの業務を兼務するもの

コールセンターのノウハウを活用して、80名のコールセンターを一から立ち上げる

ーコールセンターのノウハウは次の仕事でどのように生かされたのですか?

その後、来店型保険ショップを経営している企業に行きました。そこで社長に「私、今までこういうことをやってきたのですが、使えるところがあったら使ってください」と面接の時に伝えたら、「自社コールセンターを作るのが夢だったんです。2か月でコールセンターを作ってもらえますか?」と言われました。

そこから入社して、何にもない状況から立ち上げて、80名のコールセンターのセンター長になりました。コールセンターのノウハウは私しか持っていない中で、採用、セッティング、教育の仕組みを作り、規模も拡大させていきました。

当時は、睡眠時間がほとんどなく、1年間その状態で過ごしていたら、重度の頸椎の椎間板ヘルニアになってしまいました。即日休職し、一年半の休職期間に3回手術をすることになりました。最初の3か月は、90度で座って寝るしかない状態で、ちょっとでも動いたら激痛が襲い、パソコンも打てない、本も読めない状態でした。

でも、80名のスタッフもいますし、途中で放り投げられず、社長との約束が1年ということもあったので、どうしても踏ん張るしかなかったのです。

ー1年半の休職期間中、これまでの生き方と真逆の過ごし方をされて、気持ちの変化はありましたか?

最初は何で自分がこんなことに、このタイミングで…?と思いました。だけど、人生において、自分に襲ってくるものに無意味なものはないと思うんです。その一年半で気付かされた事とか、学んだことがたくさんありました。本当に仕事オンリーの生活になっていて、四季の移り変わりを感じることもなくなっていたことに気が付きました。そこに目を向ける時間がなかったんですよね。

他には、リハビリでプールに通っていたのですが、そこで出会った人生の先輩から、たくさん学ぶことがありました。この時間があったからこそ、今のわたしがあると思います。

その時に、自分の体が元気であることはもちろん、自分だけではなく、自分の大切な人に使える時間を残しておかなくては、と思いました。

新しく契約できた仕事もコロナの拡大で、規模が縮小。契約打ち切りの危機

仕事に復帰してしばらく経ってから、同じ社長が経営する別の会社に2019年の6月から移籍しました。将来的には、やりたい事を見つけて独立したらいいよねとスタートした会社だったのですが、あることをきっかけに、会社の経営状況が悪くなってしまい、自分たちで利益に繋がる仕事をしなければならない状況に陥ってしまいました。

私は元々専門が教育や品質だったので、以前からお話をいただいていた神戸の中小企業の経営者さんに、教育と品質の向上のサポートをご提案したところ、2020年の1月1日から顧問契約が決まりました。一年間よろしくお願いします、とスタートした後にコロナが流行し始めました。

当初は、すぐ収束するだろうと思われていたので、どんどんプログラムの開発を行なっていました。しかし、コロナの影響が拡大していき、もう研修どころではないという状態になってしまいました。
それでも4月には新卒の入社があるので、15センチの厚さのある30日間の研修プログラムの資料を作って準備をしていました。その後、大量の退職者が出たり、コロナの影響もあり、30日の研修が1週間に、そして最後には4日になりました。

このままだとクライアントのお役に立つことができない、そのうち顧問契約も終了になるかもと感じました。

PRでクライアントをサポートできると確信し、すぐに行動に移す

ー㏚塾に入ろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

このまま何もできずに終わりたくないと思っていた時に、たまたま神戸新聞に掲載された美容院の記事を見つけました。コロナ禍でも、独自で開発したフェイスプロテクターをつければ、コロナの感染を怖がることなく、カットできますよ、という内容でした。それを見たときにクライアントさんをどうやって新聞に載せるの?と思ったんです。

クライアントさんを、新聞に載せるというサポートの仕方もあるのかな?どうするんだろうと気になっていたときに、InstagramでPR塾の広告が目に入ってきたんです。メディア露出する方法があるんだ「これだ!」って思いました。

今までと全く違うキャリアですが、抵抗はありませんでしたか?

抵抗よりも、何とかしなきゃという思いが先でした。何とか出来る方法があるのだったらやりたい!すぐにPR塾に入ることを決めました。まだ会社員だったので、社長に、㏚塾の入塾費用は自分が出すので、これを私の業務として認めてくださいと相談をしました。最初、社長も半信半疑で「そんなのできるの?」という感じでしたが結果、認めてくれました。

ー㏚塾で学ばれてどうでしたか?

PR塾に入ってビックリしたのは、学びのシステムでした。もともと教育関係の会社にいたことで、色々なプログラム開発を知っていたので、このシステムは凄い!と思いました。

㏚塾生のバックグラウンドが異なる中で、誰もが自分の時間の中で、自由に学べる仕組みになっているところ、OJT式という名前の通り、実践しながらスキルを身につけて、そして実績を出せる仕組みが整っていること、他に見たことがないぐらい素晴らしいものでした。

クライアントに提案するために2週間でPR塾のメソッドを叩き込む

ー2週間でクライアントとの契約が終了というところで、どういう風にPR塾を活用されたのでしょうか?

研修を依頼していただいていたクライアントとの顧問契約は、新卒の研修が終わるタイミングで終了する可能性があると思っていました。入塾したのが4月1日、研修は16日までだったので、時間は残り2週間。その間にPRのスキルを手に入れて、提案したいと考えていました。2週間の間にPR塾が用意している何十本もの動画を全部最後まで見ました。朝から晩までずっと動画を見て、送られてきたテキストとあわせて、自分なりに考えたプレスリリースと、企業紹介資料を形にしました。

4月16日の研修の日を迎え、当日私から「実は㏚を学んでいて、PRをすることでこういう未来があります。私も見たことない景色なんですけど、社長、一緒にその未来を見ませんか?」とご提案をしたのです。そしたら「堂阪さんが言う景色を見て見たいな僕も」と言ってくださいました。

「堂阪さんなら、きっとできるとは思うけど、学びながら㏚のサポートをするということに、幹部が納得するかどうかどうかわからないので線引きをさせて欲しい」と言われました。そして「6月末までに何らかの道筋が見えたら、契約は約束通り年末まで続行しましょう。もし、その道筋が見えなかったら6月末で契約終了ということでどうですか?」と最後のチャンスをいただいたのです。

顧問契約最終日の翌日に新聞社から1本の電話。そこから契約更新へ

そこからは必死でした。㏚塾の講義では、一言一句、聞き逃すものかと思って参加していました。当時は本当にプレッシャーとストレスで潰れそうな気持ちだったんですが、それよりも、何とか道を切り拓かなきゃと思っていました。

何度も動画を見てメディアPRの準備をしていました。けれどクライアントから情報が上がってこなくて。そうこうしているうちに、契約終了の6月に入ってしまいました。結局何もできないまま時間が過ぎ、気が付いたら6月中旬。

その後、自分から企画提案をして、この内容で行きましょうとOKをもらえたのが、契約終了期日の二週間前でした。そこからプレスリリースをつくって、すぐに記者クラブをまわりました。記者クラブで記者さんにプレゼンをしたり、フォローの電話をしたり、もう必死でした。6月30日の期日まで個別アプローチをしたり、お手紙も書いたりしました。だけど、どこからも連絡がありませんでした。

7月1日にクライアントと会う約束をしていたので、朝、クライアントの会社に行くために車の運転をしていたら、1本の電話が入りました。電話は地元の新聞社の記者さんからでした。「手紙を読んで感動しました、取材させてください」という内容でした。

社長とは10時のアポだったのですが、移動中の車の中で掛かってきた電話で、本当にギリギリでした。会社に着いて「社長、地元の新聞社さんから、取材入りました!」とお伝えすることができて、約束通り年末まで契約を続行できることになりました。

神戸新聞に掲載された当日にWEB版の神戸新聞NEXTの表紙に。その後、Yahoo!ニュースにも転載された。

大切な人のために自分の時間を使いたい。PRプロデューサーとして独立

ー㏚プロデューサーとして活動されて今はどうですか?

㏚塾で一緒に学んだ仲間の存在が私にとってものすごく大きいと思います。全力で応援してくれたり、情報をくれたり、本当に精神的に支えてもらってきました。

仕事をしていると、孤独になったり、不安になったりすることもありますが、そんな時に、㏚塾の仲間が、色々な意味で私を助けてくれています。情報も、モチベーションも、精神面でもスキルアップ面でも、すごく高めあえています。

2022年11月には、㏚に集中して、どんどん自分の経験値も上げていきたい、実績も上げたいという思いがあったので独立をしました。

独立をした理由は、この先何かあったときに会社員でいられるか分からないと思ったこと。私自身健康を害したこともあるし、家族のことなど何があるかわらない。50代くらいになると、介護などで仕事を辞めざるを得ないこともあります。独立することで、自分の時間の優先順位を自分で決めて、大切な人のために使うことができる。これが大きかったと思います。

2022年3月10日、PR塾最後のアウトプット練習会の写真

㏚プロデューサーとして仕事をする中で、やりがいを感じる瞬間はどんな時ですか?

これまで縁のなかったメディアの世界を通して、見たことのない景色を見ることができたこと。あとは、㏚でサポートしている人たちの笑顔を見たときに、もうこの上ないやりがいを感じます。

この年齢でも進化できる、という自分に対する期待みたいなものがあります。まだまだ進んでいこうって気持ちになれますよね。

自分の時間の使い方は自分で決める。年齢関係なくチャレンジできるPRのスキル

ー第二の人生、キャリアを悩まれている方にメッセージをお願いします

今の年齢で考えると、やっぱり同年代の昔の仲間だったり先輩だったり、人生の分岐点で、親の介護で仕事を辞めてしまったり、好きな仕事を辞めてしまったり、何かを諦めている人たちがすごく多いんです。

仕事は本当はしたいけど、両立できないから、仕方なく介護とか家の方に入る。どっちか選択しなければいけないという所に立たされる人たちがすごく多いのが、今の現実だと思います。私も同じように不安を抱えていたことがありました。

㏚塾で学ぶことは、特別なスキルや才能がないとできないことではないので、本当にコツコツとやり続けられるのであれば、身につけて、誰もが挑戦できるスキルを習得できると思います。
私が実際に歩んでみて、50代から全く別世界でしたけど、この㏚なら転身できると思いました。そして転身することで、自分の人生を諦めずに、可能性が広がったと実感しています。

堂阪陽子さん

ー堂阪さんの経験は、PRプロデューサーとして頑張っている人、セカンドキャリアに悩んでいる人、沢山の方の背中を押すことができると思います。貴重なお話をありがとうございました。

 ※2023年11月取材当時の情報です。