受講生インタビュー

アナウンサーから広報PRプロデューサーに転身。メディアと地元の企業・個人を繋ぎ、地方をPRで盛り上げていく。名久井麻利さん

仙台の放送局でアナウンサーとして活躍されていた名久井麻利さん。SNSコンテンツの台頭などから「局アナの役割や存在意義」に悩み、キャリアチェンジを視野に入れはじめました。育児休業中にPR塾の広告を見て、フリーランスの広報という選択肢があることに気が付き、すぐに入塾を決意されました。現在は広報PRプロデューサーとして宮城のクライアント様をメインに活動されています。地元の宮城でPRセミナーの講師の依頼を受けるなど、PRプロデューサーとして活躍されている名久井さんに結果を出すまでの経緯と今後の目標をお聞きしました。

PROFILE

広報PRプロデューサー

岩手県盛岡市出身。大学卒業後、tbc東北放送入社、アナウンス部に配属となる。以来、16年間、TV・ラジオの様々な番組を担当し、2023年2月に退社、独立。現在はフリーランスの広報・PR業を主軸に、フリーアナウンサー、専門学校講師、スピーチレッスン開講、子育て応援ユニット結成など、多岐に渡り活動中。

HP:https://marinakui.com/
Instagram:https://www.instagram.com/mari_nakui/

 いい物をみんなに知って欲しい!自然とPR活動をしていた子ども時代

-16年間アナウンサーとして活躍されていましたが、なぜアナウンサーになろうと思われたのですか?

小さい頃からラジオが好きで、よく一人でDJごっこをしていました。ベランダに立って、近所の方に向けて話をしたり、雑誌に載っていたお便りコーナーの内容を自分の番組に来たお便りと仮定をして、パーソナリティとしてコメントを返すような遊びをしていました。昔から、アナウンサーや、パーソナリティーに興味があったのです。

あとは、自分がすごく好きなアーティストとか、商品とか、この良さを広めたい!伝えたい!というのがあると、誰にも頼まれていないのに壁新聞を作って学校の教室に貼っていました。

その頃から、いいものを発信したい、伝えたいという気持ちを持っていたんだと思います。言葉にしたり、文章にしたりすることで、自分のメディアを通して人に伝えることに喜びを感じていたんだと思います。

-学生時代は、どんなことに興味があったのでしょうか?

音楽雑誌の編集者になりたいと思っていました。マスコミというか発信する側に興味がありました。当時は、アナウンサーがすごく華やかな職業として取り上げられていた時代でした。憧れの職業ナンバーワンみたいな感じで、私も憧れていました。

局アナでもフリーでも、何かしらアナウンサーにならないと後悔するという確信があったので、大学1年生の頃からアナウンススクールに通って、募集があれば試験を受けていました。

放送局のアナウンサーの採用は、キー局から始まって、だんだん地方になっていくっていうような順番なんですが、本当にアナウンサーになりたいという人は、北から南まで募集があったところは全部受けるんです。

私もどれだけエントリーシートを書いたかわからないくらい受けました。それで、受かったのが東北の仙台の局でした。

苦しんだ時期を抜け、アナウンサーとしての自分のポジションを確立することでやりがいを感じられるように

-アナウンサーになってからの16年間はどうでしたか?

楽しい時期も沢山ありましたが、だんだん壁にぶち当たるようになって、キャリアチェンジを考えるようになりました。

特に入社してすぐは辛かったです。アナウンサーは、会社員とはいえ、競争の世界なんです。使いたいと思ってもらわないといけない。レギュラー番組で、顔と名前を少しずつ視聴者の方に覚えていただくことで、自分のポジションが確立できるようになって、そこからだんだんやりがいが出てきました。

仕事はレギュラー番組が、多い時で6、7本あったので結構忙しかったです。1日で自分の出る番組が2つある時は、大変でした。

一週間の中で早出、早朝出社の日と、夜勤の日、日勤の日がバラバラで、生放送や収録の時に自分のピークを持ってこなければいけないので、ピークを合わせるのも難しかった。頭痛があっても、視聴者には関係ないから、本番では元気に見せている感じはありました。若いからこそできたことだと思います。

情報番組でレギュラー出演していたアナウンサー時代

誰もが発信できる時代になり 局アナとしての仕事に疑問を感じる

-キャリアチェンジを考えたきっかけはあったのですか?

SNSが台頭してきて、スマートフォン1台あれば、誰もが発信者になれるっていう時代になってきて、その時に局アナだからできることって何だろう?と考えるようになったんです。

考えながらも、その都度自分なりの答えを見つけて、仕事をこなしていたのですが、だんだんごまかしが利かなくなってきたと感じてきました。

例えば、各界の専門家の方にインタビューができること、これが局アナならではだなと思ったら、Voicyみたいな音声配信サービスが出てきて、自分がいなくても誰でも自由に発信できる時代になったと感じたのがきっかけです。

専門家が発信しているのを聞いて、あれ?私のやりがいって何だったっけ?と思うようになりました。だんだん、自分が局アナとしてのやりがい、できることだと思っていたことが、もしかしたら別のことなのかもしれないと思うようになったのです。

自分のしていることに疑問を感じるようになったのですね。

レギュラーの仕事をしているとだんだん慣れてきて、作業みたいになってしまって、そんな気持ちで繰り返したくない、何かもう一回新しい壁をぶち破りたい!というハングリー精神が出てきました。就職活動のときに、すごくベストを尽くした結果、「内定」という達成感を味わったんです。今、もう一度新しいことにチャレンジをして、あの時の達成感を感じたい、頑張りたいって思うようになりました。

フリーランス広報という仕事を知り、私がするべきことだと確信

最終的には、どうやって決断して次の行動に移されたのですか?

地方とはいえ、顔と名前を出して公共の電波にのるので、大変なこともたくさんありました。その時に自分のモチベーションになっていたのは、例えば、このお店美味しいから紹介したいとか、こんな熱い思いを持っている人をインタビューしたら、視聴者が何か勇気づけられるんじゃないかとか、そういう出会いがある限りは局アナをやろうって思っていたんです。

でも、㏚塾と出会って、フリーランスの広報という仕事があることを知った時に、「あ、これは、わたしがやりたいことを突き詰められる仕事だ」って気が付いたんです。

アナウンサーといっても、自分がオンエアに出ていることに喜びを覚える人、スポーツの実況をするのが好きな人、報道することに使命を感じる人、色々な人がいるんですけど、私はとにかく、この人をもっと沢山の人に知ってもらうために、公共の電波にのせるべき、ということにやりがいを感じてきました。

自分が出ることより、応援する方に喜びを感じていたから、そこに注力できる仕事があると知って「これだ!」と思いました。人・もの・ことを、PRプロデューサーとして、とにかく橋渡しをしていけるところに魅力を感じました。私はこれができる!やりたい!って。

局アナか㏚プロデューサーというところで、肩書きは変わっているんですけど、私の中ではやっていることの本質は変わらないと思っています。

-どんなタイミングでPR塾を発見したのですか?

局アナ時代に㏚塾に出会いました。キャリアチェンジを考えていて、色々な転職サイトに登録をしてみたり、一般企業の面接を受けてみたりしたのですが、しっくりこなくて。

広報の仕事も興味はあったのですが、仙台は、会社の「支社」が多いので、広報の仕事は本社のことが多く、採用が少なかったのです。仙台で広報って難しいんだなと思っていたところに、フリーランスの広報という職業があることを知りました。それがPR塾だったんです。
2022年の6月にPR塾に出会って、7月に入塾、8月1日に退社を申し出ました。

キャリアチェンジを考え始めたときにキャリアの棚卸をしたら、結局、喋りと番組の制作しかしてきていないことがわかりました。40歳手前で、いざキャリアチェンジとなるとなかなか難しくて。この年齢になると管理職の採用とか、法人営業経験3年以上がマストとか、結構ピンポイントの採用になってくるので、喋れるからといって、そこのポテンシャルを見込んで採用してくれる会社はありませんでした。

何も使い物にならない…と落ち込みました。16年、何をやってきたんだろう…と思っていたときに、㏚塾を見つけました。私がこれまで番組でネタ探しをしていた、その感覚がそのまま生きる、そんな仕事あるの?最高!みたいな感じでしたね。

入塾してモニターを募集。PRを学びながら仕事に生かしていった

-PR塾に入塾されてどうでしたか?

最高の学びの場です。
PR塾では、プレスリリースやPR設計の書き方について教わりましたが、頭では分かっていても、いざ書いてみると全然書けませんでした。

伝える側としてはこういうことだろうなと思いながらしていたことが、いざ、プレスリリースや企画書に書いてまとめるとなると、戸惑いました。だけど徐々に自分の経験と紐づけられるようになってきて書けるようになりました。

実績を積むために、会社員時代から無料でモニターを募集し、PRのお手伝いをさせていただいていました。PR塾で学びながら、実際にPRの仕事を受けて、分からないところを学びながら進めることですごく身に付いたと思います。自分が書いたものの添削をしてもらうことはもちろん、色々な方の添削を見ることで、感覚を覚えていきました。

仕事を受ける時は、内心、私に頼んじゃっていいんですか?と思いますけど、プロとして「分かりました」と言って仕事を取ってくるのが、一番成長が早いと思っています。

PR塾は、動画で学べるところもすごくいいなと思います。洗濯物を干す時間だったりとか、夕飯を作るときとか、そういう時は必ずPR塾の動画をつけて、ながらで情報を入れるようにしていました。

テレビ番組など多数のメディアで取り上げられた、妊婦さん用遠隔エコーシステム「ポケマム」

1日1ミリの成長でOK!小さな成長を大切にしながら半年後、1年後を見据えて行動する 

未経験から1年でここまでご活躍されていますが、この行動が良かったなど、マインドも含めて、あれば教えてください。

月1回メディアの方がゲストで来られて、1分でプレゼンする「メディア交流会」に挑戦をしていました。アナウンサー時代は、毎日、生放送に出ているはずの自分でも「メディア交流会」では、結構手が震えるぐらい緊張しました。

メディアの方からのフィードバックがすごく丁寧で、それで凹むこともあったのですが、フィードバックで頂いたものをすぐにプレスリリースに反映してその日のうちに書いて送ったり、とにかく実践を積んでいきました。失敗もしましたが、失敗から学びを得ようと考えていました。

あとは、家事をしながら、今日は何を学べたかなとか、どんな事が進化したかなとか、一日を思い返していました。「あ、これができた」と思うとホッとするし、できていなかったら、明日こそ!みたいな感じで毎日、振り返りをするようにしていました。

とにかく朝の自分と、その日寝る時の自分を比べて、1ミリでも成長していたり、何かを得ていたらOK。日々の1ミリを大切にしながら、半年後はこうなっていたいとか、1年後はこうなっていたいという、目標を据えて逆算をして、今何をするべきなのか、行動を決めています。

意外とできた、今日も1ミリやった!って小さなことでも自分を認めてあげるようにすることが、続けられる秘訣だと思います。

ー話せることにプラスして、PRが武器として生きてると思うことはありますか?

これまでは割と感覚的にしていきたのですが、今は、PR塾で教えていただいた、確固たる㏚の再現性の高いメソッドが提供できることは、すごく自信にもなっています。

私はたまたまメディアにいた局アナという立場でしたが、PR塾には、色々な肩書き、元〇〇という方がたくさんいらっしゃいます。それぞれの元々のスキルとPRを掛け合わせることでオンリーワンPRパーソンになっているんだなと思います。

なので、これまでのキャリアと㏚を結びつけることで、きっと、違う何かが見えてくる、開けてくるところがあると思っています。PRとの掛け合わせでオンリーワンの存在になれるチャンスというのは、仕事の幅がすごく広がると思っています。

今は地元、宮城の石巻市のほか、仙台市でも㏚セミナーなどを開催しています。行政や企業様にセミナーをすることがひとつの目標でした。その点では話せるということは、1つ役立っているかなと思います。

地元で開催したPRセミナー

メディアは情報を求めているのに届いていない。企業・個人とメディアを結び付けていく

ー今後の夢や挑戦したいことはありますか?

東北地方は、まだまだ㏚という概念や価値が知られていない現状があります。私は16年間地方のメディアにいましたが、例えば個人でも、会社でも、㏚パーソンの方から、何か情報を売り込まれることは、一回もなかったんです。

プレスリリースは報道部に届くのですが、アナウンサーには届かなくて。でも、実はアナウンサーも、ラジオの場合は自分でネタを探しながら番組を作っているので、24時間ネタを探していました。その時にプレスリリースが届いていたらすごく助かったのにと思います。「生放送来ちゃう!」「明日も中継車に乗るのにどこ行こう」とか、困っていることが結構ありましたね。

とにかく、良質な情報をできるだけ効率良く集めたかったので、もっと、東北のメディアの方と、東北の㏚したい素材を持っている企業さん、個人の方を結び付けていきたいと考えています。宮城、地方を盛り上げるために「私、動くぞ!」と思っています。チーム化、いずれ法人化を目標に頑張っていきます。

名久井麻利さん

ーアナウンサー時代の強みを生かし、地元を盛り上げるためにPRプロデューサーとして活動している名久井さん。これからの活躍も期待しています。素敵なお話をありがとうございました。

 ※2023年11月取材当時の情報です。

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