受講生インタビュー

歩くことより自分らしく生きる道を選んだ、元国際線CA。車椅子生活の不便さから、難治性疾患を持つ人も暮らしやすい社会に変えるため、PRを学び発信を続ける。西本理恵さん

国際線CAとして世界を飛び回る中、慢性関節リュウマチを発症した西本理恵さん。5年間の空港地上職員を経て、広島へ帰郷。長期入院で寝たきりになったときに、自宅での車椅子生活を決意。その後、ホームページを作り、人とのコミュニケーションが増えると行動範囲が広がり、旅行も行けるように。15年間、毎年韓国へ行く中で、日本と海外のバリアフリーの違いを実感。難治性疾患を持つ人も暮らしやすい社会へしたいという思いが強くなり、発信力を高めるためPR塾を受講。現在は、リモートなど自分に合ったスタイルで、取材や講演で活躍中の西本理恵さんにお話をお聞きしました。


PROFILE

 バリアフリー住居・街づくりコンサル/PRコンサルタント

大学を卒業後、航空会社で国際線の客室乗務員(CA)として勤務。慢性関節リュウマチを発症し、空港の地上職で働くも病気が悪化し退職。広島へUターン後、外出のしづらさから引きこもりになり、その後病状の進行で入院生活へ。退院して車椅子を使いながら、自宅での生活を続け、ブログで遠隔介護術などを発信。広島のバリアフリーの街づくりに貢献したいと考え、PRを学び活動中。

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西本理恵さん

 国際線CAから一転。慢性関節リュウマチで歩くことも困難に

-若い頃はどんな女性でしたか?

仕事は、国際CAになりました。その頃は男女雇用機会均等の制度がまだなくて、東京に一人で住むとなると大手の会社に就職するのが難しかったんです。国際線CAなら、広島にも帰れるし、とても魅力的だと思って就職しました。 

-仕事を始めて何年目で、病気が分かったのですか?

関節が痛くなったのは、働き出して3年くらいです。診断されても時々休んだりしながら、そのまま仕事を続けていました。その後、地上職に変わったのですが、だんだん自分で歩いて羽田に行けなくなってしまい退職しました。

車椅子生活で感じたカルチャーショック

-その後は、地元に帰られたのですか?

広島に帰ってきてすぐに、友人と一緒にデパートに買い物に行ったのですが、折りたたみの車椅子を持っていてもバリアフリーの案内をしてもらえず、帰りには車椅子を使っていたにもかかわらず、タクシーに乗せてもらえませんでした。
その出来事に非常にショックを受け、帰郷してから一週間もしないうちに家にひきこもるようになり、その後、どこにも出かけることができなくなってしまいました。

海外はすごくバリアフリーが進んでいますし、東京もバリアフリーに関しては、だいぶ進んでいると思います。だから、すごくカルチャーショックを感じました。もう傷つくのが嫌で、それだったら外に出たくないと思いました。

辛かった入院生活。やがて生まれ変わった気分に

-病気の症状はどうでしたか?

その後、人工関節にばい菌が入ってしまい、足を切断しないといけないほどの状態になり、急遽入院することになりました。入院してもすぐに家に帰れると思っていましたが、なかなか帰れず、体がだんだん弱っていき、食事が摂れなくなりました。

その時、人間は横たわっていると、のどに何も入らなくなることがわかって、亡くなった父のことを思い出し、あの時はこんな感じだったんだなと自分が入院して寝たきりになって、初めてその時のことが理解できました。「このまま食べなかったらどうなるんだろう…」と初めて感じ、死というものを意識しましたね。

-入院生活で感じたことはありますか?

入院生活はとにかく辛かったです。自由がない病院というのは、私には向いてないのも分かりました。股関節から指先まで、ギブスで真っすぐ固定されて、ずっと上を向いたまま天井しか見えない状態が長く続きました。骨が全然つかなくて「家にはもう帰れないよ」とほのめかされました。
その時に「そんな!」という気持ちが湧いて目が覚めたんです。「自分の人生を他人に決められるなんてまっぴら」。愕然として、自分で道を切り開こうと決意し、そこで生まれ変わったような気がしました。

歩くことより、車椅子でも自分らしく生きることを決意

-家には帰れないと言われて、どう思われましたか?

「このままでは終われない」と、家に帰ろうと思いました。家も自分が使いやすいように改装していたので、家に帰って車椅子で過ごそうと思いました。一人で生活するにはどうすればいいかを考えて、車椅子のカタログを病院から請求したりしました。

 このまま病院にいたら、自分の心が失われると思ったんです。リハビリはやめて家に帰ることを決意しました。リハビリをやめるということは、立って歩けるという選択を捨てることになります。だけど、それより自分の心を大事にしたいと思ったのです。

このまま病院にいたら、帰りたいって言っても帰らせてもらえなくなるんじゃないかと思って、みんなの反対を押し切って家に帰りました。


-家に帰ってから、変化はありましたか?

家に帰ったら、だんだん「ありがたい」という気持ちが湧いてきて、すべてが違って見えるようになりました。家に戻ったのは今から20年くらい前ですが、そこから考え方と生き方が変わりました。

最初は心を閉ざしていたけど、ボランティアの人に来てもらったり、パソコンのレッスンを自宅で受けて、ホームページを作ったりと、人との接触が増えてきました。ホームページで自分の気持ちをアウトプットできる世界があることも嬉しかったし、レイアウトを考えるのもすごく楽しかったです。

人とつながり、ようやく自分を受け入れられたら、社会の課題も見えてきた

-そこから人生を歩みだして、アクティブになっていったのですね

少しずつ、少しずつ栄養補給をして、元気になっていきました。楽しみは、韓国ドラマを見ることと、ホームページを作ることでした。インターネットを通じて東京や韓国の友だちと繋がっていきました。

-人と繋がっていくことで、どういう変化がありましたか?

2005年にヘルパー2名の同伴で久しぶりに韓国に行きました。行くのは大変でしたが、またすぐに行きたいと思ったんです。そこで一つ、自分の殻がむけた気がしました。旅行に行くというチャレンジをしたことで、重度障がいを持つ自分というものを受け入れることが、その時に初めてできたと思います。

-自分を受け入れるとは?

自己容認ですね。これまではずっと「あぁ申し訳ないな」ということでいっぱいでした。空港では、リフトカーが借りられず、抱えてもらってワゴン車に運んでもらいました。横たわって移動するんです。現地の方にもすごく手を貸してもらいました。その時に「あぁ、私はこんな体でよくここまで来れたな」って、自分を認めることが出来ました。だから、申し訳ないというよりも「ありがとうございます」という気持ちで素直に甘えることができました。そこで初めて、自分を受け入れることができたと思います。大きな体験でした。

-毎年海外に行かれていたのですね。

 それから韓国には、毎年ずっと行っていました。やっぱり行かないと感覚を忘れるし、行ける環境を作っておくという感じです。2019年まで15年間、毎年行っていました。 そういう風に動くことによって、バリアフリーの事とか、社会と日本の事も、色々なことが見えてきました。

バリアフリーに関しては、不便さやハード面だけではなく、心のケアも気になるようになりました。客室乗務員だったころの海外の経験から、海外のいい所を知っていたこともあります。先進国だからいいという訳でもなく、経済的に貧しい国の方がバリアフリーに関しては進んでいることもあるので、一概に言えませんが、日本とのギャップとか社会の課題を感じていました。

社会を動かしたい。オンラインでスタートしたPR塾へ入塾を即決

-社会の課題を解決したいという思いが、メディアでの発信を学ぶきっかけになったのですか?

広島では、母親の代わりに家の事業や不動産事業などをしていました。貸地の取り戻し裁判もしたり、家のことは色々やり尽くしました。家のことが一段落着いたとき、他に自分がやり残したことはないかなと考えたら、大好きな広島で何かしたいという強い思いが湧いてきたんです。

当時、社会の課題を感じて、ブログで発信をしていたんですが、限界を感じていました。ブログだけだと社会を動かせない、と。メディアだと思いました。ずっと郁乃さんの情報をウォッチしていて、郁乃さんから学びたいとずっと思っていました。でも東京まで受講しに行くことはできなくて諦めていました。

-PR塾に入った決め手は?

コロナの感染対策のためにPR塾がオンラインでスタートしたことを知り、OJT式PR塾というネーミングにも惹かれて、即決でしたね。客室乗務員になったときにもOJTがあって、ちょっと辛い部分もあるんだろうなというイメージが私には良かったのです。
PR塾に入って、ついていけるかなという不安がすごくありました。でも、対応してくださった方や、PR塾のみなさんが変に緊張したりすることなく受け入れてくれて、そこが嬉しかったです。

難治性疾患の認知を広げるために、自分のスタイルで発信していく

-最近はどういう活動をされていますか?

最近で言うと、「世界希少・難治性疾患の日」イベントで希少難病の「難治性疾患」について話して欲しいという依頼がありました。ネットで調べたら、「難治性疾患」についてはあまりニュースが出ていなくて。せっかくだったら、もっと認知拡大したい、お役に立てるんじゃないかと考えました。
PR塾の方に相談したら、切り口を変えてプレスリリースを出したらいいんじゃない?とアドバイスをいただいて、講演日の直前でしたが、記者クラブに行って記者さんに直接説明する「記者レク」をさせていただきました。

「世界希少・難治性疾患の日」前日に掲載された記事(朝日新聞)

-ブログだけの発信から、記者の方に直接アピールできるような活動まで広がったのですね。

そこまでできましたね。広島から離れている方をPRする場合は、私はそこに行って一緒に取材を受けることはできませんが、それはあまり関係ないと思っています。離れていてもちゃんと段取りをして取材ができればいい。
本当は一緒に現地に行って記者さんとコミュニケーションを取る方がいいのですけど、もうできないものは仕方がないと思って、そういう私のスタイルを作ればいいと割り切って考えています。

西本理恵さん

―ありがとうございました。自分のスタイルを見つけてPR活動をされている姿に感動しました。貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。

※2023年11月取材当時の情報です。

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